第十六話:『魔女子さんの家』
つめたくすきとおった風に、まだどこにも咲いていない 花のいい香りがまざりあっているような気がするせいせいした日、 ポッペンとプッピンの二人はそろって魔女子さんの アパルトマンへ遊びにいきました。いつのまにかこの町に住んでいるらしい魔女子さんの家に行くのは、 ほんとうのところ初めてなのです。
「なんにもないんですよ」そんなことを言ってたけど、魔法研究者の 魔女子さんのおうちなのですから、やっぱり使いこまれた ガラスのビーカーやフラスコやシーレ、それに ぐつぐつ煮える大鍋の中には珍しい木の根っこやトカゲのシッポや 不思議な石なんかが渦巻いているにちがいない。 と、頭の中をいつか見た絵本の挿絵でいっぱいにして訪れた二人は、 すっきりと片づいた近代的な部屋で呆然とつっ立っていました。
「トカゲのしっぽだなんて、ポッペンさんも大時代ですね」
ホホ、と魔女子さんは大笑い。
「そんなにものがたくさん散らばってちゃ、頭の中だって 散らかってるのじゃありませんか」そういわれて、自らの 家を思い出した二人は恥ずかしくて言葉もありません。
「じゃあここは書斎なんですね」天井の高さにぴったり合わせて つくられた書棚に本がぎっし詰まっているのを見て、 プッピンがつぶやきます。
「そうですよ。食堂と居間と寝室も兼用しているのですけど」 魔女子さんは澄まして答えます。
で、本棚を見ると、『物質と記憶』だの『蜜蜂の生活』だの ポッペンとプッピンにはかろうじて題名を判読するのがやっと というほどの難しそうな本ばかり。それでいて、 赤い革表紙の古めかしい魔法の本なんて、どこにも見当た らないのです。都会の小さなアパルトマンの一室で、紅茶 を飲みながら、熱心に勉強をつづける若いお嬢さん! まったく、現代の魔女とはそんな人々なのではありませんか。
魔女子さんの出してくれたカモミール・ティーの熱いカップを 両手に抱え、林檎のように甘い香りのする湯気を吸い込んで いるうちに二人はすっかりこの部屋が気に入ってしまいました。
「それで、今はいったい何を研究しておられるのです?」
白い磁器製のティーポットのわきに置かれた紙に、幾何学模様や 数字がびっしり並んでいるのを見て、わくわくしながら ポッペンが尋ねると、「ああこれね」魔女子さんはちらりと 紙に視線を走らせ、何でもないように言うのです。
「時間を製造してるんですよ」
「なに、なにをですって? 時間を?」
「そう、注文が来たものですからね。なんでも大変忙しい 方なのだそうです…」
一日の大事な用事にかかる時間を全部足すと、どうしても二 十七時間はかかるのだそうです。でも、一日が二十四時間し かないので、その方は困っておられるのです」
そう言って魔女子さんは紙を見せてくれました。
食事の支度、朝、昼、夜……3時間
食事の時間、朝、昼、夜……3時間
食事の後片付け、朝、昼、夜……3時間……
「ほんとだ、これでもう9時間だ」と、呆れたようにポッペン。
「でも、もう少し節約できないものかしら」と思索気にプッピン。
そうですね、と魔女子さん、「でも9人もお子様がいらっしゃ ることを思うと、なかなかご立派ではないかと思うんですけどね」
「ハア…9人……」
あんまりびっくりしたので、二人はしばらく黙ったままでいま した。
「で、どうやって時間を製造するというんです?」
ちょっとせっかちなところのあるポッペンを見て、魔女子さんは 笑います。
そのときでした、バタンと扉が開いて、アヒルの奥さんが入って きました。
「さっそく造ってくださったのですって! 今朝方、ご連絡いただ きまして」
「ああちょうどよかった、ほらこれですよ」
魔女子さんが手渡した先程の紙片をまじまじとみつめていたアヒ ルの奥さんは、「まあまあ、ありがとうございます、ありがとうご ざいます、これでほんとうによかったこと」そういって何度もお辞 儀をして、喜びいさんで帰っていったではありませんか。
「ほら、今の方がそうですよ」
「で、どうやったんです?」せきこむポッペン。
「そんなにむつかしいことじゃないんですよ。わたくしただ、松林を お散歩するように地図をかいただけなんですよ。だって、お散歩する 時間がほしいとおっしゃるから。ね、かんたんなことでしょう?」
魔女子さんの声を聞きながらプッピンはというと、中庭から差し込 む光に熱いお茶の湯気が交差してできるプリズムにみとれていました。
林檎の木の下にいるみたいな香りのするお茶を飲んでいるこんな時 だって、どうも不思議な感じがするものだ、と思いながら。
(おしまい)